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2017年8月8日
<生死をこえて、何ができるか>
<生死をこえて、何ができるか>
<生死をこえて、何ができるか>
日野原先生の著作からの抜粋です。

私は今日まで本当に長い間、医師として働いてきました。
医師は、職業人としてだけでなく、人間として、患者やその家族に接することが必要だ、ということをつくづく感じるようになりました。

私が医師になった頃は、医師は病気を診断し、治すものだということを、先輩の医師も同僚も、また医学生も少しも疑うことはなかったのです。
患者の症状が進行し、いよいよどんな最新の医療を行っても無効だとわかっても、医師は皆、突っ張って医療を続けてきました。
しかし、それのみが医学の通る道だとは思えないように私はいつからか考えるようになってきました。

対象とする臓器の疾患よりも、人間を考えて、医学以外の手立てにも加勢してもらって、
もっと美しい、悲惨でない最期を患者さんに迎えさせるべきだと考えるようになったのです。

自分が、そして最も愛する人がどうしても死ななければならないときには、そうあってほしいと思います。

昔の医学は、診断や治療の手立てとしてのしっかりした科学的根拠や手段がなかったため、
病む人を慰め、心が晴れるような環境の中に病人を連れて行き、慈しみの心のある家族や友人が病人を取り囲んで世話をしました。

病人に仕事や家事があれば、病人がそれらを気にしないで済むように身内の者や親しい友や、夫あるいは妻が代わってやったものです。
体の中には、病気を癒す自然の治癒力があることを当時の医師は知っており、家族や友人らと共に時間をかけて、病人の病気が自然に癒されていくのを待ったのです。

ところが、19世紀になって医学が進み、他の自然科学の発達と相まって、
診断のための各種の機器が発明されるようになってきてからは、
人間のもつ治癒力を発揮する機会を待つよりも、薬や放射線で疾病を追い出すことを考えるようになりました。
この時点から、医療の対象は“病を持つ人間”というよりも、人間の中の臓器、あるいは細胞ということになったのです。

そして心と体が一体になった人間全体としてではなく、臓器や細胞ばかりを考えるようになりました。
日本の医療は、とくにその方向にエスカレートしてゆきました。

病人が重症になってくると、気管内に管を入れて(気管内挿管)、酸素を呼吸調節器で送り込み、また心臓に電気刺激を加えて、心拍を正常化させようという試みが日常のこととして行われるようになりました。

平素元気な人が、心臓発作を起こして、急に正規の心拍動が止まり、心室が痙攣状態(心室細動)となれば、除細動器で心臓を刺激します。
そしていったん心臓の動きを止めたあと、心拍を元どおりに治すことができるのです。

また、肉体がひどく侵されても、脳が挫滅していない場合には、急に心室細動や心停止が起こっても、すぐ心肺蘇生術を行えば、脳の働きを回復させた上で命を助けることができます。
しかし、極めて重症な脳卒中や脳外傷、あるいは全身に転移した末期がんなどの患者には、いくら蘇生術の処置を施したところで、意識は元には戻せないことを、経験ある医師はよく知っています。

人間の生命というのは、脳が働いてこそ心の働きが保たれ、ものの判断ができ、愛や美を感じ、真理を求めて、人間らしく生きていくことができるのです。

死がどうしても避けることのできない状態になった患者に、現代医学は何をしてあげるべきなのでしょうか。
いよいよの人生の最期にこそ、医師は何とかしてその人に有終の美を与えるように手を打つことが望まれるのですが…

<延命の医学から、いのち(生命)を与えるケアへ>
私はこの50年以上も長い年月の間に、数多くの人の臨死状態に出会ってきました。
その挙句、こう考えるようになりました。
治る望みの全くない、癒しようのない病人の命を、高度のテクノロジーで “ただゴムひもを引き延ばすように” 長く伸ばすことよりも、
残された幾ばくかの短い命をその人が心豊かに過ごせるような、最終のケアをしてあげることが最も必要なことであろうと。

人生には誰にでも、いつかは最期の日が来ます。
できれば、その終末時にも意識が保たれて、最期のお別れの言葉を交わせるときを、病人と家族にもたせてあげたい。
私は最近そのような思いを、特に、がん末期の患者に対してもつようになってきました。

そしてそれは患者に対してだけではなく、自分もそんな状態になれば、是非ともそうして人生の幕を閉じたいと願うのです。

私の患者に、78歳の婦人がおられました。
がんであれば、はっきりとそれを知らせて欲しいと、元気なときから私に言っていた方です。
その人がたまたまの健診で進行した胃がんだと分かったとき、私はそれを告げて胃切除の手術を受けることをお勧めしました。
しかし開腹手術をしたときには、がんはすでに腹膜にも進行し、もはや切除できかねる状態でした。
このことを開腹手術後、ご本人に告げたところ、この方は次のように話されたのです。

「先生、痛みだけはとってください。いよいよ召される日がきたら、私は静かに死を迎えたいのです。
そして最期に、私がこんなにお世話になった看護師さんや、担当の若い研修医の先生方、そして日野原先生に、この口からはっきりとお礼の言葉を申し上げてから死にたいのです」と。

急性心筋梗塞の場合には、極めて危険な状態であったとしても最新の治療を施すことで、命の危機から立ち直らせ得るのであれば、そうします。

しかし、がん末期にみる血圧低下や、ショックや、心停止の場合は、それに対して蘇生術を行ったり、気管内挿管をしたりすることは、
却って患者の最期を苦しめ、生命の尊厳に逆らうことになるものと私は思います。

私はこの婦人に、4〜6時間おきに上手にモルヒネを内服させ、痛みは止めても意識は失われないようにしました。
そうしてこの方の最後には、望み通り、看護師と担当医に美しい感謝の言葉を遺し、また自分はこの人生の中で何もたいしたことはできなかったけれど、
生まれてきて本当に良かった、生まれてきたことに意味があった、と話されながら静かに目を閉じられたのです。

みなさんの愛する人々、両親、祖父母、兄や姉、夫や妻が、死ぬ直前にもしっかりした意識をもって、自分は意味のある人生が送れたことを感謝するというような発語がなされたのなら、
あなたや家族や友人たちは、その死がそして死の前の生が、なんと素晴らしいものであったかを実感されることでしょう。

そして、その人自身、このような言葉を遺して死ぬことができれば、なんと幸福なことでしょう。

死に逝く人が、その最後に唇からもらした「意味のある生涯」という言葉。
その言葉の意味の深さを、残された人々は考え、またそうして死んでいった人の “有終の美” と、閉じたその人生を、誰もが心から讃えることでしょう。

こんな遺産が他にあるでしょうか。
その言葉は、残された人たちに深い感動を与え、その心に永遠に記憶されることと思います。

<インちょーより>
先日105歳で亡くなった日野原先生の言葉です。
この文章にもあるように、まさにこの言葉を体現するような崇高な生涯でした。

みなさんの愛する人が、死ぬ直前にもしっかりした意識をもって、
自分は意味のある人生が送れたことを感謝するというような発語がなされたのなら、
あなたや家族や友人たちは、その死がそして死の前の生が、なんと素晴らしいものであったかを実感されることでしょう。
そして、その人自身、このような言葉を遺して死ぬことができれば、なんと幸福なことでしょう。

この言葉が深く心に残りました。
こういう “かかりつけ医” へと成長すべく
さらに学びを続けて参ります。

私の好きなルネ・デュボスの言葉に

私はかねがね、科学としての医学の唯一の問題点は、
十分に科学的でないところにあると考えている。

医師と患者が、自然の治癒力を通じて
身体と精神の持つ力を引き出すことができるようになるまでは
医学が真に科学的になることはないだろう


とあります。謙虚な心で患者さんの心と体を癒す医師へと研鑽を積んで参ります。

皆様には、種々私の至らない点のご指摘も頂き、感謝の思いで一杯です。
どうぞ、これからも宜しくお願い致します。


参考文献:
日野原重明「今日できることを精一杯!」(ポプラ新書, 2017.3.8.)