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日野原先生の著作からです。Q. 永年連れ添った夫に死なれ、毎日淋しくて仕方ありません。早く忘れる方法はありますか?A. 僕の妻は残念ながら、93歳で僕より先に逝ってしまいました。人生の中であれほど大切なものを共にした妻、静子…清貧を良しとし、その真面目で清廉潔白な人柄から「田園調布のマリア様」と呼ばれていました。それまで当たり前のように側にいたのですから、肉体がなくなってしまったということはやはりとても淋しいものです。しかし、その一方で、彼女の姿が、益々、いやむしろ生きていたときよりも鮮やかになっているのを感じます。それが魂というものなのかも知れません。僕と妻は、魂でつながって、実際に今も一緒に生きているように感じるのです。考えて見たら不思議なことです。目に見えなくなった人の姿が、後々まで、生きていた以上に、僕たちに大きな力を与えるということがあるのです。見えないものの中にこそ、物事の本質があるということを、妻は今でも僕に教えてくれているのです。僕の大好きな作品、サン=テグジュペリの「星の王子さま」の中に「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ」という言葉が出てきます。とても意味深い言葉です。見えなくても信じられる、そういう幸せを今も僕は妻に教えてもらっているのです。亡くなった人のことを胸において、その人のことをイメージし続けていると、そこに本当の私が見えてくる。大切な人が残した言葉とともに生きるということは、本当の自分を知るためにも必要なことだと思います。Q. 今まで沢山の人の死を診てきた先生にとって、死とはどのようなものですか?A. 「新しい始まり」という風に感じます。死ぬということは、多くの人にとって、まるでトカゲのしっぽが切れるように終わるものだと考えられていますが、沢山の死を看取ってきて感じるのは、終わりではなく「新しい何かが始まる」という感覚です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、土に落ちれば多くの実を結ぶ」これは、聖書の中でも僕の好きな「ヨハネによる福音書」の一節です。麦が死ぬというと、何か淋しいような気がするかも知れません。でもそうではなく、麦が地面に落ちれば、翌年にまた多くの実を結ぶことになる。つまり、一粒の麦は死ななければいけない。死ぬことによって、無数の麦の誕生につながるという希望を示しているのです。僕は、妻をはじめ、沢山の親しい人を亡くしましたが、亡くなった後の方が、むしろ生きていたときよりも、その人の姿が僕の中で鮮やかになっていくのを感じます。そして彼らがかけてくれた言葉の意味が、死んだ後に、心の中でより深まっていくということを経験してきました。例えば妻とは、今も「ともにいる」という感覚があるのですが、その実感は彼女が生きていたときよりも強くなっているのです。死によって、しっぽが切れるように終わるのではなく、今もなお続いている。しかも以前とは違う、もっとハッキリとした形で…そういう感覚です。だから僕自身も、死そのものはこわいのですが、そこで人生の全てが終わるという感覚よりも、新しいものが始まる予感のなかにいます。多くの人の死を経験し、そしてその時が自分にも確実に迫ってきている、この歳になってもつことのできた感覚です。これまでは、医者として人々を助けるために、この世で時間を使ってきましたが、新しい世界でこそ、僕の本当の仕事が始まるような気がしています。本当の仕事をするとき、僕の肉体はこの世にないかもしれません。それでも「一粒の麦」のように、死によって僕の遺した「言葉」が豊かに実っていくことを願っているのです。<インチョーより>私も沢山の肉親の死や大切な患者さんの死を看取ってきましたが、亡くなった後の方が、むしろ生きていたときよりも、その人の発した「行動」や「言葉の力」が鮮やかになっていく感覚はとてもよく解ります。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ」という言葉がいつの時代も輝きを放って未来を照らしています。参考になれば幸いです。参考文献:日野原重明「生きていくあなたへ」(幻冬社, 2017.)
オンライン資格確認を導入しています。 感染対策として栃木県がんセンターとの連携のもと院内トリアージを実施しています。 皆様のご理解とご協力をお願い致します。 ・栃木県立がんセンター乳腺外科 ・独協医大乳腺センター ・自治医大・乳腺科 との乳がん地域連携を実施しております。
日野原先生の著作からです。
Q. 永年連れ添った夫に死なれ、毎日淋しくて仕方ありません。
早く忘れる方法はありますか?
A. 僕の妻は残念ながら、93歳で僕より先に逝ってしまいました。
人生の中であれほど大切なものを共にした妻、静子…
清貧を良しとし、その真面目で清廉潔白な人柄から「田園調布のマリア様」と呼ばれていました。
それまで当たり前のように側にいたのですから、肉体がなくなってしまったということはやはりとても淋しいものです。
しかし、その一方で、彼女の姿が、益々、いやむしろ生きていたときよりも鮮やかになっているのを感じます。
それが魂というものなのかも知れません。
僕と妻は、魂でつながって、実際に今も一緒に生きているように感じるのです。
考えて見たら不思議なことです。
目に見えなくなった人の姿が、後々まで、生きていた以上に、僕たちに大きな力を与えるということがあるのです。
見えないものの中にこそ、物事の本質があるということを、妻は今でも僕に教えてくれているのです。
僕の大好きな作品、サン=テグジュペリの「星の王子さま」の中に
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ」
という言葉が出てきます。
とても意味深い言葉です。見えなくても信じられる、そういう幸せを今も僕は妻に教えてもらっているのです。
亡くなった人のことを胸において、その人のことをイメージし続けていると、そこに本当の私が見えてくる。
大切な人が残した言葉とともに生きるということは、本当の自分を知るためにも必要なことだと思います。
Q. 今まで沢山の人の死を診てきた先生にとって、死とはどのようなものですか?
A. 「新しい始まり」という風に感じます。
死ぬということは、多くの人にとって、まるでトカゲのしっぽが切れるように終わるものだと考えられていますが、沢山の死を看取ってきて感じるのは、終わりではなく「新しい何かが始まる」という感覚です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、土に落ちれば多くの実を結ぶ」
これは、聖書の中でも僕の好きな「ヨハネによる福音書」の一節です。
麦が死ぬというと、何か淋しいような気がするかも知れません。
でもそうではなく、麦が地面に落ちれば、翌年にまた多くの実を結ぶことになる。
つまり、一粒の麦は死ななければいけない。
死ぬことによって、無数の麦の誕生につながるという希望を示しているのです。
僕は、妻をはじめ、沢山の親しい人を亡くしましたが、亡くなった後の方が、むしろ生きていたときよりも、その人の姿が僕の中で鮮やかになっていくのを感じます。
そして彼らがかけてくれた言葉の意味が、死んだ後に、心の中でより深まっていくということを経験してきました。
例えば妻とは、今も「ともにいる」という感覚があるのですが、その実感は彼女が生きていたときよりも強くなっているのです。
死によって、しっぽが切れるように終わるのではなく、今もなお続いている。
しかも以前とは違う、もっとハッキリとした形で…そういう感覚です。
だから僕自身も、死そのものはこわいのですが、そこで人生の全てが終わるという感覚よりも、新しいものが始まる予感のなかにいます。
多くの人の死を経験し、そしてその時が自分にも確実に迫ってきている、この歳になってもつことのできた感覚です。
これまでは、医者として人々を助けるために、この世で時間を使ってきましたが、新しい世界でこそ、僕の本当の仕事が始まるような気がしています。
本当の仕事をするとき、僕の肉体はこの世にないかもしれません。
それでも「一粒の麦」のように、死によって僕の遺した「言葉」が豊かに実っていくことを願っているのです。
<インチョーより>
私も沢山の肉親の死や大切な患者さんの死を看取ってきましたが、亡くなった後の方が、むしろ生きていたときよりも、その人の発した「行動」や「言葉の力」が鮮やかになっていく感覚はとてもよく解ります。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは目に見えないんだよ」
という言葉がいつの時代も輝きを放って未来を照らしています。
参考になれば幸いです。
参考文献:
日野原重明「生きていくあなたへ」(幻冬社, 2017.)